The people who are annoyed


ふうと深いため息が聞こえてくる。

本堂での読経が済み、控えのこの部屋にいる間に何度聞いたことだろうか。

「……正稔(しょうねん)さん、何かお悩みでも? 

わたしで良ければ聞きますよ」

わたしは先輩の僧侶として彼に話しかけてみた。

ため息の主の彼、遠藤正稔(えんどうしょうねん)さんは、

この月尊寺に勤める僧侶の一人である。

年は27−8、鋭利さのある目と上背があるので、

袈裟を身に着けた彼は一幅の絵のようにさまになる。

その彼がこのところ覇気がない。

「ありがとうございます、貞寛(ていかん)さん」

彼は笑顔を作り言葉を返してきた。

「いえ、僕はどうしてこう煩悩に囚われる人間かと」

「煩悩ですか……」

正稔さんは悩ましげに瞳を伏せる。

その表情でわたしは彼が恋をしているのだと感じた。

「人であるならば誰しも囚われる感情、

僧侶としては払わなければならない感情ではありましたがそれも昔のこと。

己が思うままに振る舞われるのも一つの道だと思いますが」

「ええ、そうですね……」

恋に悩むのも人なればこそ。

仏門に置く身であれど、今は婚姻も認められ禁忌とされることでもなくなった。

彼が憂うることがなくなるよう願うのみである。



しばらく経つと正稔さんは、晴れやかな表情をするようになった。

わたしはその表情で正稔さんの恋が実ったのだと察した。

正稔さんの思い人は、どうやら近隣に住まう人らしい。

夕刻、帰宅する時間が迫ると、彼の様子が目立って浮き足立つ。

恋は盲目であるとよく言ったものだ。

彼の浮かれっぷりは微笑ましくもあり少々危ぶむものでもあった。



しかしまたそれから時が経つと、再び正稔さんはため息をつくようになった。

さてこれは、正稔さんの恋に問題が発生したのだろうか。

わたしは再び問うてみた。

「貞寛さん、聞いてくださいますか」

彼は困惑げにわたしに言った。

「いえ、指輪のことでちょっと悩んでいまして。

僕としては彼女につけてもらいたい。

ああ、でもどうなんでしょう。

結婚している僧の皆さんも身につけていないようですし、

僕はどうしたらよいのやら」

彼は頭を抱え出す。

「今でいうなら指輪をつけること自体は問題ないですよ。

昔ならば指輪などの装飾品は物欲の表れであるので良しとはされませんでしたが。

身につけるつけないは個人の問題ではないでしょうか。

彼女が指輪をしたくない理由があるのなら無理強いするのもよくないかと」

「……いえ、指輪の話はまだ彼女としていないのですが……」

「はい?」

正稔さんは恥ずかしそうにうつむいた。

どうも彼女の了解を得ないまま、一人あれこれ考え悩んでいるようだった。

そういえば正稔さんは、思い込むとそのことしか頭にない性分だった。

「……彼女とよく話し合ってください。

指輪以外のことでもです。

意思の疎通は大事ですよ」

正稔さんは素直にこくんと頷いた。



まったくこの御仁は、つくづく先が思いやられる。

そして夕刻、正稔さんはいつものように家路を急ぐ。


捕らぬ狸の皮算用。

恋は思案の外。



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