A love Shino Buddhist priest


(今日は会えなかったみたい)

会社の帰り、

貴子は自室5階にあがるワンルームマンションのエレベーターの中でふうとため息をつく。

彼女は気になる男性がいた。

彼女の自室より下の4階に住む青年僧である。

初めて彼を見たときは「お坊さん」だとは気がつかなかった。

上下のジャージを着て頭にタオルを巻き、

近所でランニングしてきたといった風体でエレベーター前で一緒になったのだ。

貴子はその彼の姿に一目見るなり惹きつけられた。

ジャージ越しにはっきりわかる鍛え上げられた体、

剃髪された頭やうなじからはぞくりとするなんともいえない色気を感じた。

鋭い一重で切れ長の目に一文字に閉じた大きめの口は、

彼の意思の強さを表しているようだった。


彼は貴子を見ると会釈をした。

エレベーターが開くと、「何階ですか?」よく響く低い声で言う。

「5階です」と貴子が言うと、

長くて節立った人さし指で4階と5階のボタンを押した。

そして無言のままエレベーターが開くと降りていった。


貴子は5階の自宅に帰ってから自炊をして夕食を取るとお風呂に入る。

湯船の中でさっきのエレベーターで会った彼のことを思い出していた。

すると、読経する低い声が風呂場に小さく聞こえてきた。

(あ、彼の声だ)

貴子はすぐに分った。


防音は良いはずのマンションなのだが、

上下の部屋の音は、どういう具合か聞こえてくることがある。

聞こえてくる読経の声はどうやら換気口を伝って響いているようだった。


(彼はお坊さまなんだ)

貴子は彼の声に聞き入った。体の奥から染み入るような低い声。

直に聞くけば、もっとぞくぞく体が痺れてしまうだろう。

貴子は想像して一人で赤くなってしまった。

照れを隠すようにざぶんと口元まで深く湯船に漬かる。


それから会社から帰ってくると、何度かエレベーター前で彼と出会った。

1階に備えられた郵便受けから、貴子は彼の苗字が遠藤であることを知った。

たいがい遠藤はジャージ姿だった。

たまにジーンズとシャツを着て剃髪の頭を惜しげもなく出していることもあった。

後頭部の形のよさ、ジーンズとシャツを格好よく着こなす遠藤を前にして、

貴子は何度もちらりと盗み見た。


エレベーター内では無言のまま会釈をするだけで、

4階5階とそれぞれの目的の階数に来ると降りるのみだ。

しかし貴子にとっては遠藤とすごす小さな幸せな空間だった。




(遠藤さんに会えなかった分、せめて声だけでも聞ければ)

貴子は耳を澄ませた。

どれくらいたっただろう。

下の部屋から声がしてきた。

しかしそれは貴子が待ち焦がれていた遠藤の声ではなく女性の声。


(うそ! 彼女がいたの?)

貴子は血の気が引いてきた。

(……そうよね、あれだけ素敵な人だもの。彼女が居て当たり前)


目の前が滲み出してきた。

エレベーターの中での僅かな幸せな時間が急に色あせてくる。

出会って会釈するだけで満足のはずだった。

それ以上何のアクションも起こさなかったのは自分だ。

だから失恋してしまうのも当然で。

でも、何もしなかったからこそ後悔してしまう。

貴子はどんどん涙を溢れさせ、

しまいには嗚咽をして泣き伏せってしまった。




するとドアをどんどん勢いよく叩く音がした。

「下の階の遠藤ですが、大丈夫ですか、何かありましたか?」

(彼だ!)

貴子は涙でぼろぼろになった顔をあわてて拭い、

呼吸を整えてからドア越しに答えた。

「……大丈夫です、何もありませんから」

「大丈夫ではないでしょう、泣いていたでしょう? 

ドア壊して入ります!」

「ま、待ってください」

遠藤のあまりの剣幕に貴子はびっくりしてドアを開けた。

その途端、貴子は彼に抱きしめられた。


「あ、あの……」

「ああ、かわいそうにこんなに目が腫れるまで泣いてしまって」

なぜ遠藤に抱きしめられているのか。

貴子の頭はすっかりパニックに陥っていた。

「その、泣かした張本人はあなたなのですが……」

「えっ?」

「部屋に彼女を放っておいていいのですか?」

「彼女?」

遠藤は宙に視線を向けしばらく考えていたが、

はっと思いついた様子で言った。

「そういえばさっき、DVDを見ていたのでその音では? 

このマンション上下階の音はよく響くようですから」

そして貴子を見つめた。

そして頬ずりをした。

「僕が原因だったのですね。彼女はいません。

こんな形であなたの気持ちを知ることができるなんて」

「……ほんとですか」

貴子は今度はうれしさがこみ上げてくる。

小さな声で「ずっと好きだったんです」と言った。

遠藤は抱いている腕をますます強めた。



「あの、そろそろ離してくれませんか?」

貴子は頬を染めながら遠藤に言った。

「……嫌です」

遠藤は貴子の額に唇をつける。

「僕は寺の長男で跡を継ぐのですが、

当然その次の後継者も作らなきゃなので……」

「はい?」

「だからすぐにでも結婚してください。

寺の安泰のためにも急務なんです。

僕の方はいつでも準備万端なので。

光陰矢の如しです、善は急がねば」

「ちょ、ちょっと……」

貴子が言葉を言う前に唇をふさがれてしまった。

次第に深くなっていく口付けに身も心も蕩かせながら、

貴子の消えかけていく理性が警告した。




(もしかして早まったのかも、後悔先に立たず?)



ホームへ
inserted by FC2 system