My beloved person


僕は市内にある月尊寺に勤める僧侶だ。

月尊寺はわたしの生家である寺を含め、

宗派の総本山の寺院であり、多数の僧侶がここに通い勤めている。

僕は修行という名目で期間を限定してこの月尊寺に勤めていた。

生家の寺は父である住職を筆頭に祖母と母、弟の5人家族で僕は長男だ。

寺といえば跡継ぐことが前提だ。

僕は小さい頃から僧となるべく教育されていた。

高校で全寮制の高校に行き次期住職の子弟が多く通うB教大学へ行った。

住職の長男としての立場も十分承知している。

しかし、卒業後そのまま寺を継ぐ気にはなれず、

月尊寺に一時身を預かってもらい勤めていた。

月尊寺の勤めは規則正しい。

僕は月尊寺に近いワンルームマンションを借りた。

午前8時に出て午後6時頃帰宅する。

葬儀などが入れば拘束される時間は長くなるが。


僧としての装束は月尊寺に置いてあるので、

僕はたいがいジャージなどの軽装で寺に行く。

寺へ行けば僧としてきちんと衣装を付けなければならないから、

普段のゆるゆるな格好くらい自由にさせて欲しい。

ただ坊主頭にジャージ、僧としての修行で身についた筋骨隆々の体、

そして自分では自覚ないのだが鋭い目つきは、不審者に見られてしまうようだ。

寺の行き帰りに、巡回中のおまわりさんに職質を受けることもあった。


寺とマンションの往復する生活をしているうちに、

僕にとっての心のオアシスを見つけた。

持田貴子さんだ。



彼女を知ったのは偶然だった。

彼女とは初め面と向かって会ったわけではない。

声を初めて聞いたという方が正しい。


風呂で体を洗っているときだった。

どこからか歌声が聞こえてきた。

このマンションは防音が整ってるということだから借りたのだが、

実際はどこからかの音が聞こえてくる。

歌声はどうやら換気口を伝って聞こえてくるようだ。

僕はその声にぞくりとした。

ハスキーな女性の声だった。

歌声とともに排水溝から水の流れる音もしてきた。

どうやら風呂場で鼻歌を歌っているようだった。

場所のせいもあってか声にエコーがかかっている。

身の内からぞくぞく震えがくるほどの良い声だ。

この声で経文を唱えれば最高じゃないかと想像してしまった。



それからまもなく、その声の持ち主に1階のエレベーター前で遭遇した。

僕の身長は180センチある。

彼女の頭がぼくの肩の位置にあったから155センチくらいだろう。

肩甲骨あたりに届くふんわりカールした明るい茶色の髪をした小柄でかわいらしい女性だった。

僕は同じマンションの住人として彼女に会釈をした。

エレベーターに乗り込んで階数を聞いたとき「5階です」と答えた彼女の声で

僕はあの歌声の主であることを確信した。

部屋に着きしばらくするとてあの歌声が聞こえてきた。

歌っている本人の姿が分っているだけに生々しく、

不謹慎にも風呂場にいる彼女の姿を想像してしまった。

僧侶といってもしょせんは男、煩悩は抜けない。

僕はその煩悩を追い払うために般若真教を何遍も唱える。

しかし煩悩はなかなか払えず、むしろ深くなる一方だ。


1階の郵便受けの前で誰もいないことを認めると、

いけないことだと思いながらも郵便物受けの隙間から彼女宛ての郵便物を確認してしまう。

その時に彼女のフルネームが持田貴子であることを知った。



それからも何度もエレベーター前で彼女に会う。

いや、むしろ会えるように時間を計って寺を出る。

彼女と二人きりになるエレベーターの中。

話しかける絶好のチャンスなのに僕は何も言えなくなってしまう。

しんとした密室の中、変に意識して緊張してしまう。

これはまるで小中学校で女子を意識し始めた餓鬼のようだ。

これまで女性との付き合いがなかったわけではないけれど、

声をかけてくるのはたいがい女性の方からだったし、

それも大学までの話だ。

剃髪をして僧侶として勤めるようになってからは、

すっかり女性とは縁遠くなってしまった。

彼女はどうだろうか。

男と二人きりで気まずい思いをしていないだろうか。

ちらりと顔を盗み見る。

頬がほんのり赤い彼女は気まずい風には見えない。

ほっとするとすぐに4階についてしまう。

ほんとうにつかの間の逢瀬だ。



『ははは、ほんとに兄貴は馬鹿だよな』

「お前にそんなこと言われたくもないよ」

携帯越しにさも愉快そうにに笑う弟に悪態をつく。

『そんなことより、こっちのDVDがいかれちまって、兄貴のところで予約録画頼めない?

 昼ドラなんだけど』

「なんで僕が?」

『いやいや、今女の子の間でちょっとした話題になっているし、

話のきっかけになるかもだよ、その意中の彼女と』

「話のきっかけ」という言葉につられ弟の依頼を受けた。

しかし、たかが昼ドラ、こんなもので話のきっかけになるのかどうか怪しいものだ。

でも僕は藁にもすがりたい心境だった。


その日は法事が入っていたので、帰宅する時間が遅くなってしまった。

当然彼女には会えなかった。

僕は予約録画していたDVDをさっそく見てみた。

確かにこれは面白い。

期待はしていなかったのだが結構きている。

ドロドロした具合が引きこまれる。

女性同士の争う姿はいささか怖い。

そうしているうちに僕の耳は違う音を拾う。

ハスキーな声の泣き声。

上からだ。

そう思った途端、僕はすぐに玄関を出た。

彼女の部屋へと階段を駆け上がる。


いったい何があったのか、何が彼女を泣かせているのか。

激情の赴くままドアを叩いた。

彼女がドアを開いたとき、その顔を見るなりたまらなくなり抱きしめる。

ああ、暴走してしまっている。

自覚があるものの止まらない。

そして僕に対する彼女の気持ちを知った。

「好き」と言われ僕の暴走は加速する。

今まで話せなかった分、女性と縁遠くなっていた分、

彼女の柔らかな体を離すことができず、

暴走にまかせるままプロポーズの言葉まで言ってしまった。


ああほんとうに愚かだ僕は。

でも貴子さん、あなたを大事にしたい。



恋は盲目。

恋の山には孔子の倒れ。



ホームへ
inserted by FC2 system