思い煩うホワイトデー(5) 翌日14日。お兄ちゃんはまだ帰ってきていない。 お兄ちゃんが朝いないことはこれまでもあった。 学校の林間、修学旅行とか、会社の研修旅行とかであって、今回とは違う。 お兄ちゃん、あの従兄妹さんと一緒にいるんだろうな。 なんだか不思議な感じがする。 お兄ちゃんにとって大切な人。 わたしは下畑さんにとって、どんな人なのだろう。 まだわたしの頬や唇には、下畑さんが触れていった唇の感触が残っている。 やっぱり妹? ずっと下畑さんはそう言っていたし。 お昼ご飯を食べたあと、携帯が鳴った。 下畑さんだ。 昨日のことを思い出しいつにも増してどきりとする。 『風花ちゃん、近くまで来てるけれど出られる?』 下畑さんの声は落ち着いていた。 家の近くに来ているなんて。 返事を返すわたしの声が裏返りそうになる。 急いで支度をして玄関を出ると、下畑さんの車が側にあった。 助手席に乗るとすぐに車は走り出す。 「クッキーありがとう、おいしかったよ。」 下畑さんの態度はやっぱりいつもと同じ。 わたしだけが引きずっているのかな、昨日のこと。 なんでもない態度の下畑さんに気持ちが少し塞ぐ。 「見せたい場所があるから」と車が行く先は市内の繁華街。 住宅地から商業地域へ、デパート、テナントの入った大きなビルが見えてくる。 車はそのビルを過ぎて裏側の道へと入った。 そこに小さな学校があった。 路地裏といえど、こんなにぎやかな場所に学校があることが驚きだった。 どす黒く変色した校舎の壁。 見るからに古そうな学校だった。 車はその学校の前で止まった。 「見せたい場所ってここですか?」 「そう、窓開けてみて、聞こえてくるから」 言われた通りに車の窓を開け、耳を済ませてみる。 ピアノの音と歌声が聞こえてきた。 歌声は子どもの声ではなかった。大人の男女の混声合唱だ。 「ここ元は小学校で今は廃校になっている。」 下畑さんが言った。 「そこを生涯学習ルームっていう名前で大人の人が学ぶために利用されている。 利用している人の年齢は幅があって、 学校出たばかりの人とか会社を退職した人とかいろいろいるそうだ。 営業で回っているうちにここを知ってね、「学ぶ」ってことは年齢に関係ないんだなって。」 下畑さんがわたしの顔を覗き込みながら言った。 「風花ちゃんは絵が好きで描くことを、悪いことみたいに言ってたけれど、 ぼくはそう思わない。 むしろいいことじゃない? いろんな考え方あるとは思うけれど。 ここに来て学んでいる人たち、目的はそれぞれ違うと思う。 でも「学ぶ」ことが好きなんだろうな。 だから風花ちゃんも誰か遠慮することないよ、 自分が納得していればいいのだから。」 「下畑さん、ありがとう。」 ほんとうに優しい人だ。 後ろからそっと後押ししてくれるようなそんな優しさ。 じんわりとした温かい感情にひたっていると、 「風花ちゃんは大事な妹だから。」 と下畑さんはまた言った。 その言葉に胸が軋んだように痛みだした。 気持ちが面に出てしまったのだろうか。 わたしを見ていた下畑さんの顔つきが変わった。 真剣で熱を持ってるような目。 「風花ちゃん、国文勉強しているから、分ってくれるかなと思ってたけど、 ちゃんと言わなきゃ伝わらないよね。 『妹』を『いも』と読ませる方のがぼくの気持ち。」 妹を「いも」と発音する古語。 男性が自分の愛する妻や恋人を示す言葉。 「だからぼくと付き合ってください。」 わたしは言葉が出てこなかった。 胸の軋むような痛みはなくなり、代わりに疼くような感覚でいっぱいだった。 こくんと頷くと下畑さんは目を細めながら、 その大きな手のひらでわたしの頬を覆うように触れてきた。 (終) |