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バレンタインは甘い罠


1月末に後期試験が終わった。

大学は長い休みに入っている。

サークルに所属している沙織はともかくも、

何にも入ってない学生が学校に行くことはほぼない。

わたしは当然、アルバイトにせいを出す。

とはいえ、バイトの子たちも学校の休みは同じだから、

仕事量が増えたというわけではないけれど。

バイトの行き帰り、商店街の店先にチョコを積んだワゴンを見ると、

バレンタインが近いのだとつくづく感じた。


「相楽さん、ちょっといいかな?」

店内に客の姿が見えなくなり他のバイトの子たちがわたしの周りにいない時、

石本さんが、にっこり笑顔を作りながらわたしに近づく。

「・・・なんでしょう?」

「いやいや、2月14日のことなんだけどシフト入ってるよね。」

「はい。」

「あのさ、この日・・・。」

石本さんが声のトーンを落としてわたしの耳元で言う。

わたしの肩が反射的にぴくりと上がった。

背筋がぞわっとして肌が粟立つ。

思わず後ずさった。

わたしのその様子を見て、石本さんはくすくす笑う。


「な、なんなんですか?」

ああ、この人はわざとだ。

わたしを弄んでる。

最近何かと石本さんに絡まれていると感じるのは気のせいじゃない。

それにつれて石本さんのいろんな表情を知るようになった。

にっこり笑顔は何か企んでいる時。茶色の目をきらきら輝やかせ、

無意味に爽やかさを全開させている。

「・・・ねえ、例のバイトいいかな?」

「あの絵のモデルの件ですか?」

「うん、そういうつもりで、すでにシフト変更してあるから。」

わたしの了解も取らずに、すでに決定事項ですか。

また体痛みそう。

シップ薬、買い置きまだ残ってたかな・・・。

わたしは大きなため息をついた。


「あのね、相楽さんの家って、テーブルに椅子でご飯食べてる? 

それとも畳みに座ってご飯?」

「ええと、テーブルに椅子ですけれど?」

「ふーん。」

石本さんがにっこりと笑う。

爽やかオーラがいっそうアップしている?

「ああ、今回のは着物は着ないから。

人の体つきとかそういうのを描く素描が中心だから。

とはいえ、ヌードじゃないよ? 

そんなの相楽さんいやでしょう。」

ヌードってそういうモデルもあるのでしょうか?

わたしは「当然です」と思いっきり頭を縦にぶんぶん振った。

「・・・だから服、体つき、足の線がよくわかるのがいい。

ジーパンかズボンがいいかな。

スカートだと短いもの。

長いのは足の線がわかりにくいからね。

相楽さんどれにする?」

「ジーパンで行きます。」 わたしは即答した。

あの緊迫した現場を思い出す。

複数いる日本画家の年配のお弟子さんたちに生足を見せるだなんてとんでもない。

また、見せられるような脚線美の持ち主でもないし・・・。


石本さんとともに、再びあの日本画家の家へ行くんだな。


アルバイトをしに行くといっても、日にちがあの2月14日のバレンタインだ。

手土産にチョコレート持参した方がいいかも。

お弟子さんたちには男の人も何人かいたし。

石本さんにはどうしよう。

お弟子さんと同じものをというわけにはいかないか。

とはいえ、「本命」なんて勘違いされそうな華美なものはダメだし・・・。

わたしはお弟子さんたち用に20個入りのチョコレートの箱、

石本さん用には4個入りの小さな箱を買った。

思えばバレンタインにチョコを買ったのは、これが初体験だ。

ああ、ついにわたしもお菓子会社の商戦に乗っかっちゃったな。

でもチョコレートを前にすると、

彼のためでもなんでもなく、義理で買ったものだからと思っていても、

心がなんとなく浮ついた。



当日の14日の午後2時、○駅前で待ち合わせ。

わたしが行くと石本さんはすでに待っていた。

石本さんもジーンズにジャケットとラフな格好。

わたしが持っている紙袋に目をとめると目を細め微笑んだ。

いつもの企み笑顔じゃない。素直な感じのする笑顔。

でもそれは一瞬のことで、石本さんはにっこり笑顔をわたしに向ける。

そして例によってがっしりと腕を掴まれた。


ちょ、ちょっと待ってください。

なんで掴まれる必要があるというのですか。

着物もヌードもないのだからわたし逃げませんよ?

「石本さん痛いですよ。」

「ああ、ごめん、つい、いつもの癖で。」

「そんな癖はすぐに直してください。」

「はい。」

って、全然思ってもいないでしょうその顔は・・・。


石本さん曰く「借りた」という車で画家の家に向かう。

「ところでその紙袋はチョコレート?」

石本さんはわたしの持っている紙袋に目を移す。

「はい、一応今日バレンタインですし。

画家の先生や描きに来られてるお弟子さんたちに食べてもらえればと思って。」

「ふーん、そうなんだ。で、ぼくもみんなと一緒の分?」

「い、石本さんには・・・。」

意識していたわけじゃないけれど、言葉が詰まり声が上ずってしまった。

わたしはごくんと唾を飲んで言い直す。

「別に用意してますから。いつも本屋でお世話になってますし・・・。」

石本さんには義理、お礼のチョコだということさえ伝わればよいのだから。

でもなんだか体が火照る。

やっぱりこれは、深い意味はなくとも、

初めてチョコを異性に上げるという行為にそのものに戸惑ってしまっているのか。

うん、きっとそう。


日本画家の家に着くと、

用意していたチョコレートの箱を出迎えたお弟子さんたちに渡す。

さあ、いよいよこれから一仕事だ。


わたしが取らされたポーズは背筋を伸ばした正座だった。


・・・これでじっとしていろと?

バイトとして引き受けたからにはやり遂げなければならない、

ならないのだけれど、無茶すぎる。

だいたいわたしのところはテーブルの前で椅子に座るという生活スタイル、

正座自体めったとしない。

ああ、早く時間がたって休憩になって欲しい。

そういえば・・・。

石本さんがわたしにバイトの依頼をしたとき、「テーブルか畳みか」と聞いていた。

まさか、まさか。

わたしが正座に慣れてないと知って、わざと依頼しました?


足はしびれを通りこして石みたいにこちこちで感覚がしない。

目はちかちかするし、肩も凝る。

体は意識して力を入れないと震えそうだし、あぶら汗がにじみだす。



ようやく休憩時間に入る。

正座の限界をとっくに超えてしまっているわたしの両足は、

すぐに立ち上がれることなどできない。

足を崩そうと躍起になってるわたしのところに、

にっこり笑顔の石本さんが近づいてくる。

そしてわたしの後ろへ行きしゃがむ。

感覚のなかった足の裏をずんずんと指でつつかれる。


「――――――ひぇっ!」

わたしはたまらず手をついて前のめりになる。

なんですか、このドタバタギャグな展開は。

わたしはバラエティ番組のいじられ役タレントではありません。

鬼です。悪魔です。石本さんは。

わたしは石本さんの方に顔を向け、きっと睨みつけた。


「・・・ごめんね、つい苛めすぎちゃった。」

石本さんがそう言ったとたん、ふわりと体が宙を浮く。

これはお姫様抱っこ! 

石本さんに抱っこされてる。

今にも落とされてしまいそうな、ひどく不安定な浮遊感に、

たまらず石本さんの体に手を回してしがみついた。


「大丈夫? 向こうの和室で、お茶入れてもらってるから運んであげる。」

ああ、恥ずかしい。

できることなら歩きたい。

ままならないこの痺れ切った足。

石本さんはわたしからの返事を聞く気もない様子で、すぐに歩きだした。


「あらあら。」

石本さんが行った先の和室で待ち構えていたのは、30過ぎの和服のあの美人。

ああ、この人の前でお姫様抱っこはまずいんじゃないですか、勘違いされませんか?


「ほんとにごめんなさいね。譲さんもおいたが過ぎると嫌われますよ。」

「分ってますよ。」

石本さんはそういうと、わたしを座敷机の側に置かれた座布団の上に降ろした。

わたしが不振そうにしていると小声で言った。

「ああ、彼女はね、伯父の嫁さんだから。」

伯父さんの嫁ということは親戚の人?

だから譲さんと言ったのか。

疑問が解け納得したわたしを、じっと石本さんが見ている。

なんで見てるんですか。

そんな目で見ないでください。

恥ずかしくってしょうがない。

和服の女性はそんなわたしたち微笑んで一礼すると部屋から出で行った。

今、和室にいるのは石本さんと二人だけだ。


「・・・もう、怒っていませんから。

足も楽になりましたし、前向いてください。」

「はい。」

と言いながらも石本さんの顔はこちらに向いたままだ。

わたしは居心地悪くて、湯のみを手に取り、ぐっとお茶を飲み込む。


「ああ、彼女だね。」

声のする方を見ると50すぎくらいの紺色の作務衣を着た男の人が、和室の出入り口にいた。

どっしりと落ち着いた風格のある男性だ。

彼はわたしをじっと見つめ、満足そうにふんふんとうなずく。


「立てる? 相楽さん。」

石本さんは両手を差し出し、わたしを再び抱えようとした。

「いえ、平気です。一人で立てます。

休憩終わりなんですね。

ああでもまた正座ですよね・・・。」

「ううん、正座はもう終わり、今度は身内の方でのモデル役。」

「はい?」

「ああ、紹介するね、彼、ぼくの伯父でこの家の主である画家の息子さん。

お弟子さんたちの方はさっきので終わりで、今から彼のモデルするの。

大丈夫、ぼくも一緒だからね。」

石本さんのにっこり笑顔が再びわたしに向けられた。



石本さんの伯父である人は新進の日本画家として活躍しているそうで、

わたしがとらされたポーズは。

服は来たときのままのジーンズだし、正座もしなくていい。

大きな白いシーツを肩から羽織っているので、

ほんのちょっぴり動くのには問題ないのだけれど。

テーマが「抱擁」ってなんですか。

なんでわたし、石本さんと同じシーツにくるまって抱き合っちゃってるんですか。

これは恥ずかしすぎる。


でも、石本さんの伯父さんはそんなわたしの気持ちとは関係なく、

見る角度を変えながら、何枚も真剣な顔でスケッチしている。

芸術っていったい何なんですか。

「恥らう」という概念はないのですか?

ああ、ないからこそ新しい芸術が生まれるのですか?


ではわたしも捨てましょう。

石本さん、あなたは今から電柱です。

わたしは電柱に抱きついているんだ。

これは電柱・・・。


必死に現実から目をそらそうと考えているわたしに、

石本さんが小さな声でささやく。

「しんどいと思ったら遠慮しないで寄りかかっていいからね、・・・真由美。」

・・・この人わたしのことを名前で呼びましたね?


その言葉のせいで、わたしの顔面は一気に火を噴いたように熱くなり、

心臓が暴れ出す。

落ち着こうと何度も深く息を吐いているうちに気がついた。


石本さんの心臓の音。

とくん、とくんと規則正しく脈打つ音。

その音を聞くうちにわたしの鼓動も幾分落ち着いた。

でもそのかわりに胸の奥がきゅっと痛む。


ようやくバイトの時間が終わり「抱擁」から開放される。



帰り道。

「何か忘れてない?」

と目的の○駅前に車を止め、石本さんが助手席側のわたしの方を向く。

「・・・いいえ、何も?」

わたしは紙袋を後ろ手に隠す。

はい、わざと忘れた振りしてますよ。

石本さんに上げる予定だったチョコレート。

でも、でも、わたしはまだ今日のことを怒っているんですから。

絶対あげない。


「ふうん。」と言うなり石本さんは、両手をわたしの脇にいれくすぐり出した。

「何するんですか!」

「見っけた、やっぱり忘れてたね。」

身をよじらせるわたしから、

紙袋を取り上げチョコレートの箱を取り出し、ひらひらさせる。

ああ、もうこんな人、嫌いだ・・・。


むくれたわたしに石本さんがなおも言う。

「・・・ぼくも忘れ物。」


ふっと顔に影がかかる。

温かい息が顔にかかり右のほほに柔らかいものが押し当てられた。

「・・・真由美、本屋の方のバイトもよろしくね。」

そう言うと石本さんは車で走り去っていった。



わたしはほほを抑えたまま、しばらくその場から動けなかった。

頭がぼーとしてしまっている。

今日、1日で一生分の体験した感じだ。

石本さんの謎だったパーツも埋まってきた気がする。


伯父さんが画家である石本さん。

ということは、あの大きな由緒正しき日本家屋は親戚の家なのだから、

もしかしなくても石本さんはおぼっちゃんとかいう部類の人なのだろか。

すごい意地悪だとは思うけれど、けれど・・・。


わたしの頭の中は石本さんのことでいっぱいになってしまっていた。

胸の奥がまたきゅっと痛みだす。

「・・・わたし、落ちたのかも。」

いやすでにとっぷりと頭まで埋まった状態なんだろう。

石本さんという、危険だけれどせつない思いがする蟻地獄に。(終)



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