彼女の肖像


「譲くんが再び絵筆を揮うようになってよかった。」

伯父がしみじみ言う。

「そうですか?」

ぼくは受け流し答えながら、お茶を口に含む。

閑静な住宅街にある大きくて古い日本家屋、祖父の家のアトリエ。

ぼくは仕事の合間にここで絵を描いていた。


実のところ紙に向かい本格的に絵に取り組むは数年ぶりのこと。

それまで絵から意識して遠ざかっていた。


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ぼくの祖父は日本画ではよく知られる画家だ。

そしてぼくの父や伯父も絵を描く。

画家の一族に生まれたぼくも、物心ついた頃には父たちを真似て絵を描いていた。


子供の頃は何の迷いもなく無心に描いていた。

好きなもの好きな光景を、伸び伸びと描いていた。

絵を描くことが楽しくて仕方なかった。

また、祖父を含め周囲にいる大人たちもぼくの描く絵を褒めてくれた。

思えばこの頃が一番充実していた。


中学生になった辺りから、絵に対して疑問を持つようになった。

純粋に自分自身の絵が認められていない。

ぼくの絵を認める大人は、ぼく自身の絵ではなく、

ぼくの背後にいる祖父を意識して認めたふりをしているのではないかと。


そんな疑問を持ちながらも、

ぼくは祖父や父、伯父と同じ大学、K芸大へと進学した。

たとへ祖父たちのことがあるにせよ、ぼく自身の絵としても認めてくれるはずだ。

そんな気持ちもあった。


大学生活は、それなりに楽しかった。

決められた期間で課題を描き上げる。

モチーフを描くことに熱中しすぎて、

お昼のはずがいつの間にか夜になっていたということもざらだ。

教室に泊まって作業したりもした。

絵に対する教授の評価も良い方だった。

おおむね順風満帆。

ただし、それは表面上のことだった。


ことあるごとに祖父たちが絡む。

絵は実力世界、そのはずなのに・・・。


それは友人関係にも影をさす。

学校のないオフの時はばかを言い合う。

けれどそこに「絵」がからむと、よそよそしさを感じた。

「石本はおじいさんたちが有名な画家だからな。」

そう言われたときは、言い知れぬ怒りが湧いた。

偉大すぎる祖父たちの影はどうあっても拭えない。


また日本の画壇には派閥があった。

T芸大とK芸大は、絵を学ぶ所のそれぞれ頂点にある学校であり、

T芸大派、K芸大派という派閥に分けられた。

当然T芸大派の人間はK芸大派の描いた絵を否定する。

それはK芸大で師と仰がれる祖父のものであっても。


K芸大派の人間もまたT芸大派の絵を否定する。


純粋に絵そのものを見ているのか?

絵とは何なのか?

芸術とは何か・・・。


なぜ人は群れを作る?

相入れないものと争わなければならないのか?

それが絵という美を極める媒体であっても。


次第にぼくから絵を描く情熱を失わせていった。


いや祖父たちや派閥というものがなくても、

絵に対する熱は以前ほど持ち合わせていなかった。

疑問を楯にして描けない理由にしていた。

祖父たちの絵に対してひけめを感じていたのは自分。

繊細な筆遣い、色遣い。

なによりもモチーフに対する細やかな観察眼に感情。

どれをとってもかなわない。

描き続けるたびに打ちひしがれた。


疑問、不満は描けない事への欺瞞の言い訳。

そう思う。


卒業すると、大手の書店に就職した。

祖父たちの影響のない、一般の会社。

絵はもう止めたつもりだった。


それでも、ポップやちらし、ダイレクトメールを作るのに、

ぼくは必要以上に絵にこだわり描いた。


潔く止めることもできず、半端に描くことに留まる自分。


なぜ、すっぱりと止める事ができないのか。


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外がなにやら騒がしい。

どうやら戻って来たようだ。


ぼくは聞き耳をたてる。

耳に慣れた、きしきし廊下を踏みしめる音。

だんだん大きくなる。

間違いない。

彼女だ。


ぼくは再び絵に向う。

彼女がアトリエに近づきつつあるのを知りながら、

あえて知らんぷりをする。

そうすれば・・・。


「譲さん?」

ほら、

おずおずとぼくを呼ぶ、彼女の愛らしい声が聞ける。


わたしの妻、真由美。


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彼女との出会いは、勤め先の書店でのバイトの面接。

第一印象は正直ぱっとはしなかった。

真由美には偏見だと一蹴りされそうだが、

女子大生は華がある、そういうイメージがあった。

ところが面接を受けた彼女は主役の華というより、それを支える茎、

いや土の下に埋もれた根っこといった感じ。

店員の欠員、煩雑期ということもありぼくは彼女の採用を決めた。


店での真由美の態度は「ひたむき」、その一語につきる。

本屋はいろんなジャンルを扱う性質上、ある程度の本の知識がいる。

また、新刊、売れ筋の本にはアンテナを張り巡らせて、

情報に敏感にならなければならない。

その点、真由美は貪欲だった。


真由美を根っこだと思ったがそれは当たっていた。


根っこは土の養分、水分を取り込む、大事な器官。

植物にとっては要の部分、

根が腐れば植物は死ぬ。


ふだんは目立たない根、けれど重要な根。


ぼくの目は、気がつけば彼女の姿を探していた。


彼女は表立って表情をする学生ではなかった。

けれど僅かではあるけれど、変化させる。


根っこの変化。

それはぼくが突っつけばより顕著になった。


ぼくは必要以上に彼女に接触する機会を作った。

接触するごとに彼女は表情を溢れさせた。


その彼女に触れていく内に、ぼくの心の中にも変化をもたらしていた。



描きたい。

ただひたすら描いてみたい。

表情を。

ぼくを惹きつける彼女の内を。


生理的に近い、その渇望、欲求。


湧いてきた。


そしてぼくは再び筆を取った。


もちろん絵から離れていた時の気持ち

祖父たちに対する劣等感、

絵の疑問、

ぼく自身の心の弱さが払拭された訳ではない。

内に持ち続けている。


ただぼくは筆を取る。


己が欲求のままに矛盾を孕む心情のままに。

ただありのままの気持ちを対象を紙に向かって描く。


ぼくには祖父たちのような才はない。

認めている。

でもそれがなんだろう。

それでいいではないか。

自分自身が感じ取った心象風景を描く。


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真由美はぼくの絵を覗き込む。

「これはわたし?」

と遠慮がちにたずねる。

そうだよ、とぼくが答えると、恥ずかしいと言った。

でもその後で、ぼくの絵が好きだと言ってくれる。


ぼくは真由美の少し赤らんでいる頬に触れる。


根っこの君は、養分を大いに吸い取り、今や華を咲かせている。

ぼくにだけに開らき甘やかす、艶やかな華。




一枚の紙に対象を描く行為。

絵を描くこと自体が驕りそのものではないか。


このごろのぼくはそう思い出している。

それは才ある祖父たちの絵であっても。

自然などは紙一枚に、その魅力をあますことなく、閉じ込めることなどできない。

どんなに思い焦がれていても。


ぼくの一番描きたい真由美。

彼女もそうだ。


それでもぼくは描き続ける。

ぼくの漏れ出す愛をあまつことなく受けとめて欲しいから。




追い求める絵は遥か遠く。

でもそばに真由美がいるから、

ぼくは絵を描き続ける。 (終)



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