義姉(2) 「親父に話がある。」 俺は夕飯が終わった後、親父を自分の部屋に呼んだ。 親父は初め驚いた顔をしたが、すぐに後を付いて来た。 部屋に入った親父はものめずらしげに辺りを見回わしている。 そういえば親父が俺の部屋に来るのは久々なんだと思い当たった。 そんなに変わっていないと思う。 俺がこの部屋に移り住んだ時と比べて。 母と親父が籍を入れた後、俺は母とこれまで住んでいたマンションを出て、 親父の住んでいた一戸建ての家に移った。 そして階段を上がって奥側の部屋をあてがわれた。 そういえば、この家もずいぶんと古くなった。 部屋を眺める親父の髪も、このところ目立って白髪が増えた。 親父は50歳すぎたところだったかな? まあ、毛が薄くなっていない分、まだまだ若く見えるけれど。 *************************************************************************** 深月たちと顔合わせした日からまもまく、 母と親父は籍を入れた。 俺は深月の義弟になった。 義弟といえども、即、仲良しという訳ではなく、 俺は変わらず冷めた目で新しい家族を見ていた。 親父はもちろん今よりもずっと若くて、体系もすっきりとしていた。 深月は落ち着いた雰囲気で、中学生というより年上に見えた。 むしろ4回生の今の方が幼く感じるかも。 深月も、俺と似たように、親が再婚する前は、父一人、子一人で生活していた。 しかし考え方には決定的な違いがあった。 すべてに冷め、あきらめることを前提に考える俺。 対して、冷静に見られがちだけれど内情は熱く、あきらめない深月。 なぜ情熱を傾けることができる? そしてあきらめないんだ? 俺は深月が不思議でならなかった。 深月が「あきらめない」理由を、俺はやがて理解する。 深月は小学校にあがる前に、実母を病気で亡くしていた。 それからの父と子の二人暮し。 ただ彼女には、俺が抱えていた思い、 親に置いていかれたとか、捨てられてしまったとかいう喪失感はない。 代わりにあるのは病気であった実母との優しい思い出。 人が亡くなると、その人の良い思い出しか残らないそうだ。 深月もそうだった。 いくらいい人だったと言っても、悪い面もあるはずだ、人ならば。 この世にいっさいの善人などない。 いっさいの悪人も、もちろんいないと思う。 「死」はその人の悪い部分を忘れさせるよう。 深月の中にあるのは、実母に対する、愛し愛されていたという純粋な思いだった。 実父のことを母にすら聞けなかった俺とはそこが違った。 深月が羨ましい? ううん、俺は羨んではいない。 むしろ哀れんでいた。 人は裏切る。 そこに意思があってもなくても。 人に対し、「あきらめる」ことを知らない深月が裏切られたとき、 彼女の心に生じるであろう傷は俺よりも遥かに深いはずだ。 人にあきらめろ。 早く、あきらめることを知れ! 俺は何度も思った。 マンションから深月の家に住むようになると、 学区が違うからと、通っている小学校も変わった。 転校生、そして何事にも「あきらめた」俺という存在は、 当然クラスから浮いた。 浮いていても俺は気にも止めなかった。 なにしろ、あきらめているのだから。 でも同級生たちはそうは思わなかったようだ。 ささいなことがきっかけで、俺は諍いを起こしてしまった。 確か、俺に回ってきた給食当番のことがきっかけだ。 俺の前にいた学校では給食当番の仕事は、給食を教室に持っていって配り、 昼食が終わった後は使用済みの食器とかなべを給食室に運ぶ。 それで当番は終わりだった。 けれど、転校してきた小学校は違った。 給食室に運んだ使用済みの食器の洗いも、お手伝いすることになっていたそうだ。 俺は前の小学校の時の調子で、食器を給食室に運ぶとそのまま教室に戻った。 その後、「当番をさぼった」と帰ってきた他の給食当番にあたった奴になじられた。 当然、俺はさぼった意識はなかった。 この小学校での「きまり事」を知らなかったのだから。 俺は同級生たちから言われる文句を淡々と聞いていた。 言い訳をするどころか表情も変えない俺に、どんどん怒りが増したよう。 俺をなじる奴が増えてきて、しまいにはクラスの人間のほとんどから、 悪意のある視線を向けられていた。 浮いていた俺は完全に孤立した。 同級生たちは完全無視を決め込む。 ひそひそ話はたいてい俺の悪口。 別にかまわないと思った。 俺は何よりも「あきらめていた」から。 だが、その頃から体は変調をきたしていた。 学校へ行く時間になると腹痛がした。 回復を待って登校するので、遅刻することが増えていった。 また無事登校できても途中、腹痛に襲われ、早退することもあった。 俺は心配された。 病院に連れられる。 自律神経失調症という、ごたいそうな病名を言われた。 病院に通っても体調はなかなか良くならなかった。 母も、親父もどう対処していいか迷っていたみたい。 俺とこれまで以上にスキンシップをしたがる。 母はパートを止め、家にいるようになった。 親父は俺とお風呂に入るようになった。 これまで一人で入っていたお風呂。 とても戸惑う。 親父と別段話しすることなどなかったし。 ただ親父が心配しているのはよく分かっていた。 だから、言われるまま一緒に入った。 深月は、俺の気分がいい時に、いっしょにゲームをして遊んだ。 ゲームに飽きると、絵のモデルをさせられた。 させられたというより、くつろいでいるところを、勝手に描かれただけだけれど。 でも、これは俺が病気になったから始まったことじゃなく、 一緒に生活し始めてからも変わらない光景。 ちらりと覗き見したときの、深月の絵は下手だった。 線はへろへろ、指なんてバナナの皮みたい。 けれど、どこか暖かく、安らいだ気持ちになる絵。 夜は俺にとって一番の苦痛だった。 目を閉じても眠れない。 頭は冴えたまま。 次々と、前にあった出来事が頭に中に浮かんでは消える。 罵倒したりあざ笑う同級生。 何も分かっていないのに訳したり顔で注意する先生。 その先生がやがて実父にとって変わる。 背中を向け、俺の視界から遠ざかっていく父。 ああ、家を出て行くときの情景だ。 俺は目を開けた。 頭がずしんと重い。 部屋を出てから閉じたドアの前に座った。 暗がりの中、階段の方をぼんやり見つめる。 そうしているうちに深月の部屋の扉が開く。 「聡くん? また、眠れないの?」 そう言いながら、深月が近づいてくる。 俺の目が熱くなってきた。 泣きそうになっていた。 これは夜中一人、暗がりの中座っていたせい。 眠たいのに眠れない。 だから脳が混乱して勝手に涙を流すよう命令を出している。 ううん、そうじゃない。 何事にも「あきらめていた」俺。 でも、ほんとうは「あきらめ」なんてしたくなかった。 同級生たちとも仲良くなりたかった。 実父と別れたくなかった。 置き去りになどされたくなかった。 なんで? なんで? あがいて、もがいて、無茶苦茶になっても抵抗したかった。 ああ、俺のほんとう姿は「あきらめの悪い」奴。 押し込め上書きして、忘れていたはずの感情だったのに。 堰を切るように涙が勝手にこぼれてきた。 深月が俺の前に座る。 頭の後ろに手を伸ばすと、そのまま胸に抱きしめてきた。 俺は嗚咽を殺し、彼女の胸の中で息を潜めて泣いた。 (続く) |